郡司 琢哉
TKUアナウンサー 郡司 琢哉 Takuya Gunshi

三角形と台形

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三角形の中神島と台形の湯島。
そこに夕日が落ちて行って・・・思わず車を止めてパシャリ。

週末は2週連続上天草市で春高バレーの取材&実況。

帰りに背中から浴びる夕日も悪くありません。

菊池市総合体育館。
今年もママさんバレーの実況に行ってきました。

出場は年齢別3つの部に27チーム。
そのうち決勝に残るのは6チーム。

どこが上がって来るか分からないので、しゃべる人としてはいろんなチームの関係者に話を聞きます。

4年前決勝戦をしゃべった某チームに話を聞きに行くと、
監督が「どうぞ」とアイスコーヒーとお菓子をくれました。
うれしい限りですね。

しかしふと横を見ると、その決勝戦の相手だった某チームが・・・。
何かを察したのか私にバナナをくれました(笑)

結局、『アイスコーヒーチーム』と『バナナチーム』が準決勝で対決し、
『バナナチーム』が勝利し決勝に進みました。

「わかっとるだろうね」という表情で私を見る『バナナチーム』の皆さん。

わかってますよ!実況は平等にですね(笑)

愛しとーとカップ 第42回九州ママさんバレーボール大会熊本県大会。
放送は25日(木)午後3時50分からです。

mamasan2016

写真は大会のひとコマ、画面奥が私にアイスコーヒーをくれたチームです。 感謝を込めてブログに掲載(笑)

おじさん

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水族館にて、魚の説明コーナーの中に・・・

ojisan2

出た!おじさん! 本当にいたんですね(笑)

熊本地震からどんどん時間がたって、まもなく3カ月になろうかというのに、
私のブログは4月16日の話で止まったまま。

その後はどうだったかというと・・・
私のうちでは、地震のあと1週間で水道が、2週間でガスが復旧しました。

断水期間中はペットボトルの水を電気ポットで温めてシャワー代わりにしました。
すると気づくんです。
「普段のお風呂、どんだけ水使ってんだよ」と(笑)

テニススクールは1週間、スポーツジムは1カ月で営業再開しました。

テニスの仲間、バレーの仲間、同級生・・・
誰に会っても最初は「大丈夫だった?大変だったね」という会話で始まり、
住宅被害がどうだの、皿が何枚割れただのそんな話で盛り上がります。

益城町に行くと、震災直後から何も変わらない景色が広がっています。

mashiki

でも熊本市では、だいぶ日常に近づいてきた感じがします。

今は普通に水が出て、ガスがついて、道路が走れて、お店に行けば物もある。
当たり前のことが、なんてありがたいことか。

こんな気分になるのも宮城県南三陸町にFNN取材団として応援に行って以来、5年ぶりのことです。

まだまだ取材はほとんどが震災関連ですが、
とりあえずコラムのようなものは今回で終了します。

全国からのご支援、ありがとうございます。

4月16日土曜日夜。
取材や特番を終えた私は一旦帰宅することに。

近くのコンビニが開いていたので、入ってみました。
もちろん消費者として出遅れていることは百も承知。
食べ物があるなんて期待はしていませんでしたが、ここでも見ることができるであろう非日常を求めて。

案の定おにぎりやパンはすべて売り切れ。
奥の飲み物コーナーはほぼカラ。
お菓子もほとんどありません。

あるのは水で割って飲むお酒(焼酎・ウイスキー)と塩辛そうなつまみ系。

水が出ない、ガスが来ない、さらに物流もストップして次の商品搬入がいつになるのか分からない段階での
人の心理状態・消費行動が見て取れます。

本震後命からがら飛び出してからほぼ20時間ぶりに帰宅。

家の中の惨状は・・・、まあご想像におまかせします(苦笑)

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写真は、会社のロッカールーム更衣室に敷かれた布団。
震災直後はここで寝泊まりしました。

4月16日土曜日午後。

私の取材分も含め、各地から上がってきた甚大な被害状況を特別番組で放送することに。
私は尾谷キャスターとともにヘルメットをかぶってスタジオへ入りました。

ちなみにこの時まで、のちに「前震」「本震」と言われた震度7の地震以外にも、
震度6強を2回、震度6弱を3回も観測していました。

また震度1以上は結局4月の3週間で1000回、5月1カ月で500回。
とにかくたくさんの地震に見舞われました。

1500回も地震を経験すれば、いろいろなことが分かります。

例えば緊急地震速報。
震度6以上の地震であれば、
揺れとほぼ同時か揺れのあとで緊急地震速報がなりだすのであまり意味をなしません。

逆に緊急地震速報がなっても、まだ揺れていなければだいたい震度5以下。
本能的に「あ、大丈夫」と思ってしまうのです。

また最初の1週間は数分おきに揺れる状況。
これだけ揺れていると、いま止まっているのか揺れているのか分からない感覚になり、
何か船酔いしているみたい。

ところがそれを過ぎて余震の間隔が少しあいてくると、
鈍感になって震度3でも気づかない(気にしない)状況です。
ちなみに今は余震も落ち着いて、また震度1でも揺れを感じるようになりました。

話もどって本震当日の特別番組。
余震が頻発する中、地震の概要、被害状況、ライフライン・・・。
被災した方たちに必要な情報は何か、限られた時間の中でお伝えしました。

でも家屋が倒壊していたり、停電が発生していたり。
「結局この放送は、そうした人たちには届いていないのか」

こんなもどかしい気持ちになる災害特番も、初めての経験でした。

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写真は報道スタジオ。
このスタジオ横の壁にもひびが入っていました。

健軍からTKUのある北区徳王までは、市電が走る県道いわゆる電車通りを通ってほぼ1本道。
普段なら30分くらいで着きます。

この日は土曜日なのに市電は運休、車もあまり多くなく、
消防・救急などの緊急車両が頻繁に行き来しています。
一部信号機が止まっていて警察官が手信号で対応していたり、街灯がありえない方向に曲がっていたり、
どこを見渡しても日常とはかけ離れた光景が広がっていました。

ちなみに車が少ないと感じたのは午前中だけで、午後には各地で大渋滞となっていたのですが・・・

そして通町を過ぎたころ、また信じられない光景が。

往路の時は真っ暗で気づかなかった熊本城の石垣崩落。
崩れた石垣は県道沿いの神社の社務所を飲み込んでいました。

損壊は石垣が53か所、国の重要文化財が13か所、復元建造物が19か所。
もちろんこれらは、時間がたってから分かったことです。

熊本のシンボルは、皮肉にも熊本地震の象徴的な存在となってしまいました。

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※写真は5月11日報道公開時に頬当御門付近から撮影

4月16日土曜日。
夜が明けると、さらに信じられない光景が広がっていました。

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東区の健軍商店街でスーパーマーケットが倒壊。
現場の状況をリポートし、商店街の他の店のご主人のインタビューを撮って、
私は撮った映像を会社に送ろうと考えました。

私のクルーは伝送手段を持たなかったので、映像素材をタクシーで運んでもらおうとタクシーを探しました。
ところが、タクシーはおろか動いている車がほとんどないのです。

周辺のタクシー会社に電話をしてみても「今日はすべて止めています」とのこと。

「自分たちの車で会社に戻るしかない・・・」

クルーは益城方面に向かうのをいったん諦め、素材運搬のために帰社することにしました。

私が生まれ育った町は大きく傷つき、その機能すら失ってる・・・。

やむなく判断した帰路の途中で、私はまた悲しくなる光景に遭遇したのです。

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4月16日土曜日の午前2時ごろ、出社すると本棚から本が散乱して足の踏み場もない状態に。
泊まりの人たちと地震後出社してきた数人が、バタバタと情報収集していました。

「熊本市東区などで震度6強」
「熊本市で家屋の倒壊多数」
「八代市で火災発生」

とにかく現場で状況を取材しなければ。

私はカメラマン、アシスタントと3人で浜田アナのクルーと手分けして熊本市内を取材することにしました。

北区清水町で国道3号線松崎跨線橋が陥没。
中央区練兵町で住宅倒壊。
東区熊本市民病院で入院患者の搬出。
これらを取材し、人の流れに沿って東区湖東中学校の避難所を訪れました。

体育館に座ってパソコンを操作していた20代くらいの男性に話を聞くと、
「両親が西原村にいるんですが、まだ連絡がとれないんですよ」と不安そうな表情。

どんな言葉をかけたらいいのか分からず、ただ悲しい気持ちになりました。

冷たい夜風が外にいる被災者の体温を奪い、続く余震が不安感をあおったあの日の夜。

気がつくと東の空は徐々に明るくなり始めていました。

2度目の大きな地震の直後、外に出てみると廊下も真っ暗。
エレベーターも止まっています。
ガスのような臭いもしました。
「爆発するかもしれない、とにかく離れよう・・・」

1階まで降りると駐車場や前の道路は命からがら逃げだした人たちでいっぱいになり、
異様な光景になっていました。
お年寄りや小さな子どももいて、みな不安な表情です。
「大丈夫でしたか?ケガはなかったですか?」
近くにいる人に声をかけ、少しでも不安を取り除こうとしました。

電気は20分ほどで復旧し明るさは戻りました。

携帯電話と財布だけを持って家を飛び出した私は電気が復旧したのを見て、
阪神淡路大震災の時に多発した「通電火災」が発生しないか心配になりました。

「1回目に倒れなかった食器棚が倒れ、1回目は比較的落ち着いていた熊本市内が混乱している。
これは14日の地震より揺れの大きな余震に違いない・・・。
益城町は大丈夫か?熊本市内でも被害が出ているかも」

そんな思いを頭の中でめぐらせ、
地震発生後30分くらい経過したころ私は会社へと向かうことにしました。

「地震が起きたらまず会社へ」
普段からそう心がけていた私ですが、
本当に酷い地震が起きたときは自分の命を守るに必死で、簡単に出社することすらできない。

そう教えてくれた地震でした。

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