全国の被災地で歌い継がれる復興のシンボル曲『しあわせ運べるように』作者 臼井 真氏の思い【熊本】
阪神・淡路大震災をきっかけに生まれ、全国の被災地で歌い継がれてきた復興のシンボル曲『しあわせ運べるように』。
震災から30年がたった被災地・神戸の街には、今年も子供たちの歌声が響き渡りました。
熊本地震の翌年、2017年。
西原村の小学校を訪れた神戸市の音楽教師 臼井 真 さん。
【臼井 真 さん】
「新潟中越地震や東日本大震災で子供たちがたくさん歌ってくれて、熊本でもみなさんが歌ってくれていると聞いて、来ました」
1995年1月、今から30年前。
臼井先生が阪神・淡路大震災から2週間後、避難所となっていた勤務先で折れそうになる気持ちを抑えながら裏紙につづった歌詞は『神戸』という地名を『熊本』に換えて歌われていました。
【熊本の合唱♪】
「地震にも負けない強い心をもって亡くなった方々の分も毎日を大切に生きていこう」
【臼井 真 さん】
「(震災当時)精神的におかしくなりそうだった」
「避難所の中で、これから待ち受けているもの、精神的な重さが苦しかった」
【神戸・117黙とう】
神戸市の市歌にも指定されているこの歌は、震災を語り継ぐ世代、そして震災を知らない世代に寄り添ってきました。
【臼井 真 さん】
「『この歌を聴くと、当時の悲しい記憶がよみがえるので、聞かないようにしている』という声も聞いてきた。時間がたてば、〈希望の歌〉と気づいてもらえるのかもしれない」
小学校を退職した臼井先生は現在、神戸市の大学で教師を目指す学生に歌がつないできた震災の記憶を伝えています。
この日、ゼミに訪れていたのは当時1歳半の息子・将君を震災で亡くした高井 千珠 さんです。
高井 さんは学生たちを前に『しあわせ運べるように』との出合いを語りました。
【高井 千珠 さん】
「(初めて曲を聴いたのは)〈息子の死と向き合って日々どう生きるか〉というときだった。『亡くなった方々の分も毎日を大切に生きていこう』という部分が〈亡くなった方々の分も毎日を大切に生きていこう〉と思えなかった」
「時間がたつにつれて、初めて聴いたときと違う感覚があった」
「自分は気が付かないうちに歩いてきたんだなと」
臼井先生は、高井さんが亡き息子の姿をつづった歌詞にやさしいメロディーを付けました。
30年が過ぎても遺族の悲しみや後悔は癒えることがない。
東日本大震災の被災地でも歌い継がれる『笑顔の向こうに』。
「この笑顔の向こうにたくさんの悲しみがあるの」
「どんなに笑顔をつくってみても悲しみは癒やされない」
今年の1・17の集いで浮かび上がったのは毎年のように起きる大災害の被災地、そして30年癒えない悲しみを抱える人々への「よりそい」。
命の灯し火が揺らぐ竹灯籠には、「1本では倒れやすくても支え合うことで立つことができる」という願いが込められています。
【117の集い会場 臼井 真 さん】
「作者が生きていることに驚かれてどよめきが起きる30年だった」
「まだ語ることもピアノも弾けるので」
各地で歌い継がれるこの曲には「ともに支え合おう」という祈りが込められ歌い継がれていきます。これからもずっと。
♪「しあわせ運べるように」