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台湾近代教育の先駆者〈六氏先生〉平井数馬を偲んで【熊本】

日本が台湾を統治した時代に教育に当たった6人の日本人教師がいました。そのひとり、平井 数馬は熊本出身の17歳の若者でした。その生涯をひもとき、顕彰を進める人たちを追った。

(1月24日/熊本県護国神社)
コーラスグループ『神社かがやき隊』です。歌っているのは台湾の近代教育の礎を築いた『六氏先生』をしのぶ歌だ。

1895(明治28)年、日本は日清戦争後の下関条約によって台湾を統治することになり、同年7月、台北の芝山巌に初めての学校を開いた。そこで教育に当たった6人の日本人教師は開校から約半年後に全員、命を落とした。その一人が熊本から渡った平井 数馬という17歳の若者だった。

数日後に控えた『平井数馬歿後130年祭』で彼女たちは『六氏先生』の歌を披露する。

【平井数馬顕彰会 白濱 裕 会長】
「『六氏先生』は楽譜が今まで(日本で)出版された本には載っていないんです。台湾の唱歌集の中に見つかったということで、ひょっとしたら、戦後、日本で初めて歌われたのではないかと」

【神社かがやき隊 諸熊 由美さん】
「台湾で殉職された日本の6人の先生がいらっしゃることを初めて知り、私たちにお話があったことは大変ありがたいなと。本当にいい機会をいただいたと思っております」

【平井数馬顕彰会 白濱 裕 会長】
「17歳で亡くなった平井数馬の無念を偲んでいただければいいし、(当日は)熊本に平井数馬の魂が帰ってきてたぶん喜んでくれるだろうと思います」

平井数馬の済々黌の後輩に当たる白濱さんは、高校の教師を務めていた。白濱さんが会長を務める平井数馬顕彰会は毎年、墓前祭や慰霊祭を執り行っている。

平井数馬は1878(明治11)年、西南戦争で一家が疎開した松橋村(現在の宇城市松橋町)に生まれた。済々黌で学ぶ、飛び級で進級する秀才。特に語学に優れていたという。

【平井数馬の兄の孫 平井 幸治さん】
「17歳でこの世を去って、いまだに多くの皆さま方にお参りしていただき、大叔父にあたる数馬おじさんもきっと天上で喜んでくださっていると思います」

【台北駐福岡経済文化弁事処 陳忠正 処長(当時)】
「〈台湾の教育の恩人〉と言ってもいい方です。台湾でも尊敬されています。一人でも多くの台湾の人、特に若者が知るように微力ながら頑張っていきたいと思います」

顕彰会はこれまで遺族など関係者から話を聞き、台湾で調査を行い、事実を確認するという作業を繰り返してきた。

【平井 幸治さん】
「北京語の通訳としてなら採用してもらえるだろうということで、済々黌を出た後、九州学院で北京語を身につけて」

そして、新たに分かったことを講演会で報告するなどして、平井数馬の功績を広く知ってもらおうと活動している。

【平井数馬顕彰会 増田 隆策さん】
「2月1日は慰霊祭がありましたが、台湾でも全小学校が芝山巌の方を向いて黙とうを捧げるそうです」
「今はインターネットで検視状や報告書、辞令が検索できた」
(証拠の固め方がやっぱり、以前、警察官だったから)
「同じですよ。いろいろな人が証言するでしょう。本当なのかと裏付けをずっと取っていくわけです」

【講演会に参加した学生】
「(平井和馬は)聞いたことなかったです」
「(六氏先生も)聞いたことがなかったので、すごく感銘を受けました」

2009年9月、熊本市中央区の小峯墓地に李登輝 元総統の姿があった。日本統治時代の台湾に生まれ、1988年から2000年まで総統を務め、「台湾民主化の父」といわれた人物だ。

【李登輝 元総統】
「いわゆる日本語教育の始まりだった。若くて立派な方が6人も日本から集まり、台湾の教育に本当に貢献した。感謝しております」

このとき、李登輝 元総統の隣にいた平井眞理子さん。数馬の兄・幸三郎の孫だ。

【平井 眞理子さん】
「李登輝さんにお会いした時に『日本の教育があったから今の台湾がある』と。日本では聞いたことがないようなことを聞いて」

数馬は憲兵を務めていた兄のために台湾に渡って、わずか7カ月で台湾語の会話帳を2冊作った。単語と日常会話を日本語と台湾語で記したものだ。

【平井 眞理子さん】
「17歳でそんな辞典とか作れるはずがないとか言われていたんです。人に言って違ったら恥ずかしいから黙っておこうと。(研究している大学の先生が)『日台辞典』の最初は平井数馬」と発表して。インターネットで見たときにびっくりして。『間違いない』『書いてある発音が素晴らしかった』と」
(平井数馬が作成した会話集が基となり、『日台会話』(辞書)が編さんされ、
 台湾に渡る人たちが受け取って行っていた)
「特に熊本の人が受け取って、先生が台湾に行かれる時ですね」

太平洋戦争が終わるころ、台湾の識字率は92.5%まで上がり、現在の発展につながる大きな原動力になったという。

台湾の近代教育に大きく貢献した六氏先生の一人、平井数馬の足跡を知ってもらおうと白濱さんたちは去年11月、台湾歴史探訪ツアーを企画した。

台北に開かれた初めての学校『芝山巌学堂』の跡地は公園として整備され、『台湾の教育の聖地』として多くの人が訪れる。

6人の教師は当時、生徒たちと寝食をともにして教育に当たっていた。しかし、日本の統治に反対する〈抗日ゲリラ〉によって周辺の治安は日に日に悪くなっていた。6人は避難を勧められたが、学校に残って授業を続けた。そして、1896(明治29)年元日、100人余りの抗日ゲリラに襲われ、全員殺害された。

【平井数馬顕彰会 白濱裕会長】
「TSMC等で熊本は非常に台湾ブームですけれども、その元はやはり教育にあるという思いです。特に若い世代に大きい志を持って、そして雄飛してほしい。平井のチャレンジ精神に学んでほしいという気持ちは非常に強くなっております」

(2月1日/熊本県護国神社『平井数馬歿後130年祭』で『六士先生』の歌を
 神社かがやき隊が歌う)
やよや児等 はげめやよ 学べ児等 こどもらよ したへ したへ たふれてやみし先生を うたえ児等 思へやよ 進め児等 国のため おもへ おもへ 遭難六士先生を

【平井数馬の兄の玄孫 平井 隆幸さん】
「130年たった後でもこれだけの方々が(慰霊祭に)いらっしゃることに本当に遺族として大変光栄と思っています」

【平井数馬顕彰会 増田 隆策さん】
「この証書を書いたのが平井先生と分かりました。平井先生が作った軍隊憲兵用の『台湾語』を横に持ってきて比べたら一致するんです。平井先生の(字の)決定的な特徴は時間の〈時〉。〈月〉みたいに右側がバアーッと伸びている。間違いなく平井先生が書いた」

平井数馬顕彰会は歿後130年祭に合わせ、『「六氏先生」最年少 平井数馬伝』を発行した。詳細な現地調査の結果をまとめた、これまでの活動の集大成だ。

【平井数馬顕彰会 白濱 裕会長】
「本が出来ましたので一区切りなんですが、今度は135周年に向けて、いろいろな企画をしていきたいと思います」

日台辞書を初めて作った平井数馬、熊本と台湾をつないだ大仕事を17歳の少年がその身をかけて成し遂げていた。

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