テレビ熊本ドキュメンタリードラマ 郷土の偉人シリーズ第26作 土地改良の詩・冨田 甚平(ストーリー)
テレビ熊本ドキュメンタリードラマ  郷土の偉人シリーズ第26作  土地改良の詩・冨田 甚平
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ストーリー

冨田甚平は1848年(嘉永元年) 、父茂四郎、母セイの長男として肥後国菊池郡砦村大字台字水島(現在の菊池市七城町)に生まれた。冨田家は士族の自作兼地主の大農であった。水島の周辺は菊池川の支流、木野川、内田川、迫間川、合志川が合流しており、この河川流域の低地はかつて御倉米として納められた良質の菊池米を産した菊池平野が開けている。菊池一族によって栄えた土地でもあり、菊池平野は肥後における穀倉地帯であるばかりでなく、北を守る前進基地として戦略上重要なところでもあった。菊池鹿本地域は早くから農業の先進地だったのである。そのような土地に生を受けた甚平は、近くの筑紫塾で学んだ後、父とともに農業に従事する。甚平は小さいころから、事物を子細に観察し、究明に没頭する性格であった。
 豊富な水に恵まれた土地ではあったが、場所によってはぬかるんで作業効率が悪く、収量も低い湿田が大きな割合を占めていた。明治8年から14年に実施された地租改正において担当御用掛を拝命した甚平は、土地等級の決定に参画したが、この調査で、あぜ道一つしか隔たりがないのに等級がひどく違い、米の収量に差があることに気付いた。苦しむ農民のため、どうにかできないだろうか…その頃思い描いた夢を、彼はこのような「土地改良の詩」にうたいあげている。

        みいりもうすく品あしき 鹿の屋の深田も排水し 田区の改正ごばんがた
        鍬を鋤に取りかえて 作業もやすくすみやかに 病虫害もうすらぎて
        米のみのりのますのみか 水田かわりて麦菜種


湿田を何とかして立派な水田に蘇らせたいという強い思いに駆られた甚平は、排水の良し悪しがその原因だと直感し、早急にそのことを実験してみたいと思い立った。当時、彼の家には水はけの悪い湿田はなかったが、村の中でも特にひどい湿田を父に無断で高値で購入し、実験に踏み切った。当然、父にひどく叱責されたが、強い思いを曲げられなかった彼は自力でその田の配水工事にとりかかり、田に溝を掘り、地下に水の通る水路、すなわち「暗渠(あんきょ)」を作るという実験を断行。実験は見事成功し、湿田を排水の良い美田へと導いた。
 甚平の挑戦はこれにとどまらなかった。「湿田の水は抜くだけではもったいない。抜いた水を利用すれば、稲作に必要な大量の水として効率的に利用することができる…」苦心の末、彼は「留井戸」というものを考案した。これにより、排水するとともに、必要があればその水を、田を潤すことにも使用できるようになった。おかげで、干害を避けることもできるようになったのである。甚平は画期的な発明であるこの「留井戸」をさらに簡便化した「水閘(すいこう)土管」を製作、これは値段が安く操作がきわめて簡単であったため、瞬く間に普及した。その後も彼は研究開発を進めるとともに、数々の工事を手掛けながら、冨田式と言われる暗渠排水法を確立した。現在も熊本県の低平地の排水不良の水田地帯では、甚平が開発した留井戸に小型の水中ポンプを組み合わせて利用しているところがある。

 甚平は生涯、自らの技術の普及に努め、その技術は熊本のみにとどまらず全国から求められた。当時、特に全県的農地改良を推進していた鹿児島県には知事の厚遇を受けて招かれ、土地改良に大きな成果を上げた。その業績は高く評価され、山口県や秋田県にも招聘されたのをはじめ、長崎、東京、島根、三重等全国各地の耕地整理にも貢献した。昭和2年、80歳で死去するまで、彼は果敢に湿田に挑み続けた。
 持ち前の観察力と正義感、そして人々の生活をより豊かにしたいという強い思いのもと、その創意と工夫と努力で、自分がうたいあげた「土地改良の詩」の理想郷を見事現実のものにした冨田甚平。本ドラマでは、立ちはだかる困難に果敢に、そしていかにも楽しげに挑み続け、美田を生み出していったその生涯をドラマチックに描く。

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